チェリビダッケのブラームス。 (静岡 ワイン)
チェリビダッケのブラームス。
健全な音楽だよな。
ブラームスって。
普段生活していると、乱れた音楽が自然と耳に入り苦痛な時がある。
改めて、ブラームスのヴァイオリン・コンチェルトは素晴らしいと痛感。
しかし、長大な作品だよな。
特に第2楽章、アダージョ。
木管の旋律が31小節も続き、そしてヴァイオリンのソロ。
ソロ・ヴァイオリンまでは長いが節度あるブラームスの響きである。
56小節からのヴァイオリンは見せ所。感情を注入し歌い上げる。
これぞ、ブラームスが泣いている。
あの内気な彼が泣いてるよ。
この辺がブラームスの面白さ。
ヴァイオリンはユーディ・メニューイン。
戦後にベルリン・フィルを救ったセルジュ・チェリビダッケが指揮。
1946年のフィルム。(リハーサル)
興味のある方は【クリック】
しかし、指揮者は経歴がわからん人物もいる。
チェリにしてもそうだ。
戦後のベルリン・フィルとチェリビダッケの足跡は、
クラウス・ラング著チェリビダッケとフルトヴェングラーに詳しく書かれています。

1945/46年シーズンは108回のコンサート、その内24回が演奏旅行である。
1946/47年シーズンは128回のコンサート、その内55回が演奏旅行である。
そして、フルトヴェングラーが本格的にベルリン・フィルに復帰すると指揮する回数が激減。
1954/55年はたったの4回である。
ご存知のように、帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンが音楽監督に君臨し、
チェリビダッケは同オケから去る。
この辺の事情は、さながら政治の世界である。
駆け引き上手なカラヤンは終身常任指揮者として君臨である。 見事!!
そして、
38年後の1992年に復帰するまで雪解けにかかる時間はあまりに長かった。
その時、
私は10代であったがヴァイツゼッカ大統領のスピーチを今でも覚えている。
【チェリビダッケ氏はルーマニア出身ですが、戦中、戦後の食料危機もベルリン市民と苦労を共にしてきた。】
スピーチの中でも、この箇所を鮮明に覚えている。
この事を考えてリハーサルを見ると、感慨深いです。
人に歴史有り、お店に歴史有り。勿論、民族に歴史有りである。
健全な音楽だよな。
ブラームスって。
普段生活していると、乱れた音楽が自然と耳に入り苦痛な時がある。
改めて、ブラームスのヴァイオリン・コンチェルトは素晴らしいと痛感。
しかし、長大な作品だよな。
特に第2楽章、アダージョ。
木管の旋律が31小節も続き、そしてヴァイオリンのソロ。
ソロ・ヴァイオリンまでは長いが節度あるブラームスの響きである。
56小節からのヴァイオリンは見せ所。感情を注入し歌い上げる。
これぞ、ブラームスが泣いている。
あの内気な彼が泣いてるよ。
この辺がブラームスの面白さ。
ヴァイオリンはユーディ・メニューイン。
戦後にベルリン・フィルを救ったセルジュ・チェリビダッケが指揮。
1946年のフィルム。(リハーサル)
興味のある方は【クリック】
しかし、指揮者は経歴がわからん人物もいる。
チェリにしてもそうだ。
戦後のベルリン・フィルとチェリビダッケの足跡は、
クラウス・ラング著チェリビダッケとフルトヴェングラーに詳しく書かれています。

1945/46年シーズンは108回のコンサート、その内24回が演奏旅行である。
1946/47年シーズンは128回のコンサート、その内55回が演奏旅行である。
そして、フルトヴェングラーが本格的にベルリン・フィルに復帰すると指揮する回数が激減。
1954/55年はたったの4回である。
ご存知のように、帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンが音楽監督に君臨し、
チェリビダッケは同オケから去る。
この辺の事情は、さながら政治の世界である。
駆け引き上手なカラヤンは終身常任指揮者として君臨である。 見事!!
そして、
38年後の1992年に復帰するまで雪解けにかかる時間はあまりに長かった。
その時、
私は10代であったがヴァイツゼッカ大統領のスピーチを今でも覚えている。
【チェリビダッケ氏はルーマニア出身ですが、戦中、戦後の食料危機もベルリン市民と苦労を共にしてきた。】
スピーチの中でも、この箇所を鮮明に覚えている。
この事を考えてリハーサルを見ると、感慨深いです。
人に歴史有り、お店に歴史有り。勿論、民族に歴史有りである。
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